• 今あるはただ神の恵み
復元されたチセ(住居)が立ち並ぶコタン(集落)@二風谷アイヌ文化博物館

北海道取材第3弾。今回は北海道では競走馬の産地で有名な日高にある二つの教会をお訪ねしました。

日高・胆振地方は北海道各地にいたアイヌの方たちが、現在でも多く住んでいるところとして知られており、明治から昭和初期にかけてそれらの方々へのキリスト教の伝道も行われました。

今回お訪ねした二つの教会、日本聖公会平取聖公会(沙流郡平取町、司祭:内海信武氏)と日本福音キリスト教会連合静内新生キリスト教会(日高郡新ひだか町、牧師:佐藤信彦氏)も、アイヌ伝道の働きの中で生まれた教会です。

今回はアイヌ伝道についてまず取り上げてご紹介したいと思います。

まずはアイヌについて…

アイヌの男性(1880年)

Wikipediaによるとアイヌとは「北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住し」、文字を持たない一方で、ロシアのアムール川流域からカムチャッカ半島までを交易圏としていた民族。現在は日本、とくに北海道にその大半の方がいるとの記載があります。今回取材した平取町の二風谷は特に有名です。

その歴史や文化などに関しては、一部の研究者の努力がなされてきましたが、総合的な研究はこれからの課題とされています。

大和民族ないし日本の中での関りとしては、松前藩とその祖先の蠣崎氏がアイヌとの交易を15世紀ごろより独占し、江戸時代になってからは特にアイヌに不利な条件で行われていたようです。さらに明治になってからは、同化政策が進められました。

北海道アイヌ協会のHPには次のようにあります。
「明治期から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書にはアイヌを『土人』と表し、基本的にはアイヌは先住民族との認識の下で公教育を進めてきました。戦後は、一転して国籍を持つ者『国民』としてだけで把握し、その民族的属性やそれら集団に対する配慮を欠くこととなりました。」

ですから、先住民族としての意識はとてもデリケートな問題のようです。今回の取材でも先生方のお話の節々にアイヌの方がおかれた複雑な状況を感じました。
Wikipediaにはこうもあります。「長い間、和人による差別や蔑視をうけた事により、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、大和民族への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年は自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。」

2007年の先住民族の権利に関する国際連合宣言を契機に広くこの問題が認識されるようになったのは記憶に新しいところです。

詳しくはWikipediaの「アイヌ」の項目

実は、明治期の北海道で、アイヌにとても熱心にキリスト教を伝えた方々をいるのをご存知でしょうか。英国から聖公会の宣教が広く行われ、北海道の聖公会の信徒の多くがアイヌであるという時期があったようです。

1928年頃のバチェラー

アイヌへのキリスト教伝道と言えば、アイヌの父として知られる英国人で聖公会の宣教師であるジョン・バチェラーの働きです。バチェラーは当時のアイヌの方々の置かれていた状況の厳しさ、特に日本人の差別と偏見に心痛められたことがアイヌへキリストの福音を伝える原動力になったのです。

バチェラーは、英国での神学の研鑽を経て、宣教師になるべく香港にわたり教育を受ける一方で体を壊し、転地療養のため北海道・函館に来ました。
函館は江戸幕府の鎖国の終焉となった1854年の日米和親条約により海外に開かれた港のひとつで、北海道のキリスト教の伝道もここ函館から始まったと言える地です。
療養生活の中で、聖公会の北海道伝道の先駆者であるウォルター・デニングの指導を受けながら伝道をはじめ、その中でアイヌのことも知り、先にアイヌへの伝道を模索していたデニングとともに函館を拠点に北海道のアイヌへの伝道を開始します。よく知られている有珠山近くの有珠、そして平取を訪問。アイヌの人々の調査とともにアイヌ語も学び、のちにアイヌ語訳新約聖書も記すなど、言語学や民俗学的研究でも功績を残しました。

平取では、アイヌの首長をはじめ人々の信頼を得て伝道を進め、平取聖公会の司祭の内海信武先生によると、1880年に多くのアイヌの方々がキリスト教に入信し、平取聖公会はこの年を宣教開始の年にされているそうです。
ちなみに、バチェラーはこの後、一旦英国へ帰国し神学を学び直したり、帰国後すぐ結婚したり、精力的に動きます。
1886年には登別にほど近い幌別に移り、そこでアイヌの子女のためのキリスト教教育に注力、のちに函館に移る愛隣学校の端緒となる働きも行いました。

ジョン・バチェラー

平取聖公会は、バチェラーの後オーストラリア人女性宣教師に引き継がれ、日中戦争・太平洋戦争期を経て現在に至ります。戦後はバチェラーを記念してその名を付けたバチラー保育園を併設し、ここアイヌ伝道の歴史が残る平取町で今もキリスト教教育を受け継いでおられます。

ちなみに、前述の内海先生によると、釧路春採出身で、バチェラーの下で函館で学んだアイヌの伝道師、辺泥五郎(ぺてごろう)という方が平取町に隣接する鵡川町で鵡川珍聖公会が戦後ほどなくまであったそうです。アイヌ伝道における聖公会、とりわけバチェラーの影響の大きさを物語るものだとお話を伺いました。

◆日本聖公会平取聖公会のご案内へ

バチェラー夫妻(左前後)とバチェラー八重子(右前)

キリスト教会におけるバチェラーの影響は、聖公会に留まらないということが次の訪問先である日本福音キリスト教会連合静内新生キリスト教会の牧師の佐藤信彦先生のお話でもわかりました。

バチェラーは1891年に札幌に拠点を移し、アイヌ伝道をさらに続けました。その働きの中で、バチェラー八重子として知られる向井八重子を養女にし、またアイヌ出身の牧師、江賀寅三(えが とらぞう)もバチラーから洗礼を授けられました。

この江賀寅三が設立したのが、静内新生キリスト教会の前身のひとつである静内新生教会とのこと。ちなみに、もう一方がOMFという伝道団体が、戦後開拓した静内キリスト教会で、両教会は1975年に合同し発足したそうです。

その後、日本ホーリネス教団の創設に関わり、初代監督をした中田重治と出会った江賀寅三は、聖公会を離れることに。しかし、戦争の激動の波がホーリネス教団に…牧師をやめて故郷の北海道・長万部町に戻り役場勤めをしていたそうです。戦後は、司法書士の資格を得て静内で開業しながら、再び伝道者の道へ。1968年に前述の静内新生教会を設立した直後に召されたと佐藤先生はお話されていました。

◆日本福音キリスト教会連合静内新生キリスト教会のご案内へ

平取聖公会と福音主義の教会である静内新生キリスト教会は、実はアイヌ伝道、そしてそれに半生をささげた伝道者ジョン・バチェラーによってつながる教会だと知って驚きました。
アイヌ伝道に生涯をささげた人々の思いに触れる貴重な取材となりました。

ところで、平取町の二風谷地区には二風谷アイヌ文化博物館があり、平取町を流れる沙流川流域に広がっているアイヌの歴史、民俗、文化などをより深く知ることができます。近くに温泉施設もあるようですから、ご興味のある方は一度足をお運びくださることをお勧めします。
二風谷アイヌ文化博物館の公式HP